昭和44年9月3日 朝の御理解


 御神訓 「神徳を受けよ人徳を得よ」

 人間の幸せ、神徳を受けるという事が、これは一番のいわば決めてでございますけれどもなんというても私は人徳を得よと仰るこの人徳がなかったら、また、人の信用に支えられるというか、人にいわば愛されるというか、そういう中にあらなければ人間は幸せではないと思うですね。神徳を受けると言う事はいつも様々な角度から頂いておりますから、今日は人徳を得よというところを少し聞いて頂きたいと思う。人徳を得る。
 人徳を得るという事、やはり、人徳を得るためにそうするというような条件つきのものではないでしょうけれども、やはり、人徳を得るためには人徳を受けておる人を見ると非常にこの、努力をいたしておりますね。様々な、どんなに良い人であっても、立派な人であっても何かこう、人があんまり好かんというか敬遠するという、ね、特にこの信心をさせて頂いておりますと、段々身に徳を受けていくといういわゆる神徳を受けていく、信心の修行をさせて頂きよりますから、まあ例えばとりわけ御道の教師というような風に御道の先生方の場合を見てみますとね、取次者である御道の先生であるから皆が先生先生と下から下から大事にしておるわけですけれどもね、けれども、信心のない人からはまあ、大事にされないでしょう。人徳というのは信心の有る者からでも信心のない人からでもやっぱり、立てられるというか、そういう内容を持っておかなければならん。だから自分がその教会長というか、先生だからみんなが先生、先生と言うておる。まあいうならば段々神徳を頂いて、人が助かるから先生先生と言うておる。助かった人が言うておる。けれども今度は神様が一度そこに人が助からんようになると申しましょうか、ね、不都合なことがあったりいたしますと先生とも言ってくれません。
 あそこに、お参りしよる時には信心を止めたらそのかえってなんていうんでしょうか、はあ、私は信心を止めたばってん、あそこの先生は立派な人じゃったというような人はまず少ないですね。はあ、もうえばりちらかしてからやかましどんばっかり言うてから、と皆にかえって悪口を言われる( ? )。神徳を受けて人が助かるから人が大事にしておるというのはだからこれは人徳ではない、私はそう思うですね。私は今まで、神徳を受ければ人徳はもう、ついてくるもののように思うておったけれども、人徳はやっぱりここに得よと言うておられますように、努力しなければ得られないということです。はあ、あそこの先生ばっかりは口ばっかり。話しは上手ばってんかもう口ばっかりと言うような事では、だからいよいよ、人徳を。それでも人が助かればね、やはり先生先生とこう、そこの教会なら教会にご縁を頂いてお参りをしよる間はです、やっぱりお取り次ぎを願うなら金光大神として頂かなければならんと教えておられるますから、やっぱり先生を拝むように皆が大事にしておりますけれども、それを間違えるわけですね。先生は。はあ、自分はこんなにえらくなった。人から拝まれるようになった。人が親先生親先生と言うてくれるようになったと。ついその親先生の座の上にあぐらをかくようになる。まあ、それでも助かっとればですね、親先生がその( ? )はないけれども、ね、おかげを頂かんようにでもなったら、口では親先生親先生と言いよっても、もう、心では軽蔑しておる。これはもう人事ではない私自身のことを言うておると思うて皆さん聞いて頂きたいのですけれどもね、ただ、神徳を受けて人がどんどん勿論助かれば助かった時だけは神様のようにそれこそ仏様のように大事に致しますけれどもね、その人の例えば、例えば取り次ぎを受けて助からんようになったらもう、地に落ちてしまうのが、普通でありいわゆる人徳を受けるやっぱり修行ですわね、得よと仰っておられますから。人徳を得るためのやはり修行というものがなされなければいけないと。
 あの人の言われる通りにしていうならだまされてもです、あの人は、というような人があります。ね。私共は神様に一途の信心をしておる、させて頂いておる為に人間からはどげんいわれたっちゃええ、笑われてもいいというような事に成る程、人に笑われても神様に笑われるようなことがあっちゃならんと、神徳を受けていくというのはそれだけ絶対に必要です。人が馬鹿というてもね、人から笑われるような事があっても笑われてもです、ね、神様から笑われてはならんという生き方。確かにそういう一途な生き方によって神様のご信用を得る事が出来る。御神徳を受けていく事が出来ますけれども、その辺のところをちょっと間違えますとね、もう人を軽く見るわけですね。神様からさえよう見られればというでしょうか、いわば、何と申しましょうかね、信心を頂いておるという事になにか一つの優越感とでももうしましょうか、ね、「信心の専門ばっかりはもう話しにならん」、といったようなその、優越感のようなものを持っておって、おかげもよう頂ききっておらんというものが、もう、これは信心させて頂いておるものの中に沢山おりますが、そういう人達が人の信用を受けることは出来ませんですね。もう本当にあの、よくよく自分というものを分からせて頂いて信心が無い人の姿というものをよく見よるとですとても、信心しよる私の方が負けるというのが、沢山あることですよ。あっちは信心しちゃないけれども親切だ。ね、あっちは信心はしていないけれども辛抱強い。あっちは信心をしていなけれども私よりも美しいという人がありましょうが。ですから私共が本当にあの、まあ全てが師匠だと、私、なら、本当に信心のない人達の素晴らしいところをです、信心しておる私達が改まなんらんといわれながら改まりが出来ずに自分達のほうが以下であって、信心を頂いておるからというて、優越感というかえばるといったようなものあってよかろうはずがだからないわけですよね。もう、信心のない人たちばっかりは話しにならんと。まあ、私共はそれをよく見たり言うたりする事でございますけれども、今日はこの事を頂いてから改めてそれを思います。 
 昨夜の御理解に私ご神前にでらせて頂きましたら皆さんがご承知でしょうか、白髪染めに元禄という白髪染めがございますよね。( ? )とか、元禄とか有名な大変進んだ髪染めがあるそうですけれども、昔そんなんでした。あの元禄というあの、白髪染めのレッテルですよね、レッテルにいわゆる、やっぱりこう、三つ巴のですかね、三つ巴の( ? )の羽織を着流しにした、大石倉之助を書いた絵じゃないでしょうか、扇子を顔のあたりにこうもって、こう、いうならえらいまあ姿の良い格好。まあ、( ? )踏ん反り返った格好でこうしておる絵がついておりますよ。レッテルには。皆知っておるでしょう。よく、薬屋の看板に出ておりましたが、今ごろどげんでしょう。あの絵を頂くのですよ。扇子をこう( ? )に持って、まあ、とにかくまあ、( ? )なんかの姿であるなら、立派な姿ではありますけれども、まあ、よく見ると踏ん反り帰った姿ですよね。昨夜はその、私その事からヒントを得て皆さんにお話を聞いてもらい、いわゆる一つの(  ?  )もうしましょうかね、最近は昭和元禄さえ言われる時代なんですね。泰平ムードです。ですからもう、それこそ、わがまま放題わがまま勝手なことをしておってもまだ足りない、例えば戦時中のあの苦しさなんかを思うたらとてもこの事だけでも有り難い。食べ物も例えば腹いっぱい食べられる事だけでも有り難い。
 着物がこうしてきておられるという事だけでも有り難い。はずなのにですね、だんだん例えば泰平ムードがその、身についてしまって、いわゆる贅沢をしても贅沢をしてもそれで喜びも湧かんといったような時代だとこういうわけでしょうね。感謝の心なんかさらさらない。そして、( ? )事、華やかな事。ね。楽なこと。だけ憂き身をやつしておるというだけである。刹那的な喜びにだけ明け暮れておるというのである。私はそういうような意味のことがですね、金光教とはいいません。合楽の中にも合楽の信心のなかにもそういうムードがあるのではなかろうかと。先日から、少年少女会、青年会の方達と、あのキャンプファイヤーを致しました。あの時にあれだけの沢山の人が集まったのに、今度の何かの日曜の時に福岡に竹内先生の公演を聞きに行こうということになったら、青年だけでも実を言うたら五十、六十はすぐ集まらなければならんのに、一般に呼びかけなければならないほどに、その、行こうという人がないちいうわけですからね。
 ああいうて例えばわあわあ言うて騒ぐようなことには、ハイハイと言うて手を上げてもさあ、信心の話しを聞きに行こうという時には誰も手を上げないといいうならば、ちょっとおかしいじゃない。ね。それは青年会だけのことではありません。これは合楽の信奉者全部の中になんとはなしにその、合楽ムードというものがですね、やはり、泰平ムードといたら( ? )かもしれませんけれども、いわゆる、昭和元禄と言われるようなやはり影響を受けておるのではなかろうかと思うです。ね。そこで、昨夜私はその事についてはとにかく、白真剣なお詫びの信心といったようなものが、薄くなっておるような気がする。ね。もうとにかくお詫びに徹すると。詫びて詫びて詫び貫かせて頂くと、いうような信心が影が薄くなっておるのではないだろうか。これは考えようでは由々しきことだと。自分がよかつのごと思うておるから、お詫びする心が段々薄くなってくるのですから、ははあ、昨日ご祈念に頂いた、あの、白髪染め元禄の絵ですよね。いわばあの、こう、踏ん反りかえったような、男やら女やら分からんような着物を着てこう、しておるというようなああいう姿はこれは現在の合楽の姿ではなかろうかと。どういうところからそれがそういう事になってきたのか、世の中かがそういうような、風がありますから何時の間にかそれを信じてきたといやそれまでですけれども、信心させて頂いておりゃそこんところが毅然とした信心が出来なければならんのに、折角信心させて頂いておりながらお詫びに徹するといったような信心が薄くなってきてからではなかろうか。同時に合楽の場合最近のことからこう言いましても実に華やか。御大祭月次祭前夜祭、御大祭、三日も続いたいわゆうるまあ、お祭りがお祭り騒ぎになっておるはずはありませんけれども、どこにかそういう雰囲気がありはしなかっただろうか。私は色々とこう、大祭の明くる日の( ? )反省会なさいました。私はまあ、幸か不幸か参加しませんからおかげ頂きましたけれども、その時に御用を頂いた、いうなら合楽の中心の婦人の方達で明くる日それがあったのが、そのほとんどの人がです、何時間か腹が痛んで休んだといったような状態。なんかこれは神様がちゃんとせんかというてお気づきを下さっておるような気がするのです。ね。20日の御大祭といや、ね、悪疫予防と、といったようないうなら願いが中心の御大祭であらなければならないはずの、その、明くる日が医者に言うたらおそらくあれは、( ? )分からんのですよ。何か食べ物があたっておるのでしょうか、ね。けどおかげを頂いて二日、長い人は四日五日もその為にお参りが出来んといったようなことだったんです。これはもう本当にその方達じゃない、これは合楽自体に、いや中心である私に対する御気づけであるとまあ気がついておるようであってなら、お詫びのところが出来ていない。そういう例えば雰囲気がですね、元禄ムードといったような事がね、神様の目からご覧になればです、ではなかったろうかとまあ、昨夜その時に強く感じたのでございます。これは本気で私共のいわばその世の中のそういういろんな悪とでも申しましょうかね、に、染めてはならない。しっかり信心の帯をしなければざまないなという事を感じます。
 お詫びに徹するといったような信心がないところ、いわば、低姿勢な信心がないところに、段々そういう雰囲気が強くなってくるのではなかろうかとまあ思うのでございます。ところが今朝もまたですね、同じそれを頂くのです。元禄、その、いわゆる(  ? )それを頂く感じがですね、夕べのそれとは違っておる。何とはなしに、踏ん反りかえったような感じ。ね。えばっておるような感じ、もう後ろからバッと切りつけられでもしたら、もういっぺんに切られてしまわぬような感じ。そして、今日頂きましたら、神徳を受けよ、人徳を得よというとりわけこの人徳を得よというところを強調して頂くように思うのです。ね。ですから、人徳を得る為にはどうしてもこれは神徳を受ける時には尚更のことでございますけれども、人徳を得るためのやはり修行というものはこういう事では人徳を落とす。こういう事では人徳はつかない。人の信用はつかないという事を数えてみてですね、それが自分に果たして出来ておるか。どんなに素晴らしいといっても口ばっかりの人には絶対に人徳はつきませんよ。( ?)例えば、あのつまらん政治家にあれは口ばっかり、口約だけはとにかく広くするけれどもそれを実行しないから、もうあれが言うことはだめ。それからね、信心する者は変人になれと仰るのは変人ではなくて風変わりというおりますよね。世の中には。それを場合には変人といいますがそれじゃない。変人じゃない。いわゆるふうたんですたい。(  ? )とも言います、この辺では。人が(   ?  )でけん。もうこういう人は絶対人の信用はつきませんよ。人徳は得られませんよ。その人がお金を持っておる、物を持っておる仕事が出来る。だからとにかく仕事の上手な人は風が良い。ばってんあれが仕事が上手じゃけんお願いします、もうあれが風が(?)ばってん、(  ?  )ち言うてから頼まにゃんち言うてから頼みよるばってんか、仕事どんが出来んごとなったらあの人が風が、誰も相手にしませんです。ね。口ばっかりの人にはとても人徳はよりつきません。それから、(  ?  )であってはならない。人を山ちいやしゃっち川ちいわなんと。ね。それから、辛抱力のない人。辛抱力の人には人徳はつきません。いわゆる、実意のない人。ね。ですから、私共にそういう雰囲気が少しでもあるとするならそこんところを大きくそれを取り上げてですね、そこんところをやっぱり改まっていく事に努力しなければならんと同時にです、ね、やはり人の為に世の為に真心いっぱい、ね、に尽くす人がありますよ。自分のことのようにして人のお世話なんかをする人がありますよ。お世話なんかを実に行き届いて出来る人があります。ね。そういうところがですね、信心があると非常におろそかになる向きがありますね。かえって。ね。神様にお願いしてやりよる。果たしてその、事が神様が聞き届けてくださる程しのお願いしてやりよるになっておるだろうか。ね。それから、威張りたがる人。例えばこれは村内というだけのことじゃありませんけれども何でも上の例えば婦人会長さんなら婦人会長さん、もう( ? )こたえん人がありますばってん、誰もなさんでしょうが。そげんた。いや私は私はという人にどうでんこうでん今年一遍あなたになってくださいち言うて、けれどもなろうごたるとには誰でんなそうごとなか。あれは威張りたがるから誰も、人徳はない証拠ですよ。世の中にはその、村の中にでも町の中にでもそれが必ず一人二人はおるです。何か、肩書きをこう名刺んでんなんでん、名刺の裏にいっぱい書いちゃる人がある。ね。そして、自分はこげな役をしておるということをですね威張りたがる人がある。そういう人は成る程いろんな策を講じてでもその、( ? )例えば獲得しましても人の信用は決してつきません。いわゆる人徳はつきません。ね。本当は人のそのそういう思いの中、ね、善意の中になからなければ人間の幸せはない、そういう善意の中に支えられておるような私はおかげを受けなければ人間の幸せはない。勿論その、今日は御神徳のことじゃないですよ。神様のご信用を受けると言う事はこれは絶対のものですけれども、今日は特に人徳という事について。ね。だから今こそこうやってえばっておらんけれども、もし私にここに例えば億万長者にならせて頂いたとするか、立派な着物がきれれるような私いなるとするか、ね、人よりも贅沢が段々できるようになってくるとしますか、ね、そういう時にです、ね、それを自慢、自慢たらしゅうなったら私は人徳はつかん。そういう人はそれこそ、「実が実れば実るほど、かがむ稲穂かな」というようなです、ような態度の人でなからなければです、人徳はつかない。ね。そういうためのなら、そういう持って持ち合わせておる人はいいけれども、私とものように無茶はしていない。ちいとおだてられるとすぐ親先生になってしまうた、ちっと良い物を身につけさせて頂いておるともう人を軽く見る。これでは人徳がつくはずがない。またそれでは折角頂いておる御神徳によって、これは私のことですよ、人が助かるようになってきても助からんようになってくる。助からんようになってきたらもうそれこそ、親先生のおの字もいわんようになる。それこそ、鼻にもかけんようになる。これはいよいよ私は思うです。私なんかはもう、今、もし人が助からんようになってお参りがなくなったら、はあ、合楽の親先生と言うてくれる人は一人もなかろうと思うです。自分の内容から言うて。これは本当に人徳をうむことに努力しなければならんな。これは私のことですよ。はあ、親先生が向こうから通りござりよるとなら、もう、はりゃあんた合うと物もいわにゃんけんち言うてから、横道(?)ごとなるですよ。私ごたるとは。必ず。夕べも頂いたがあの、その、元禄ムードのことについて頂いたが、今日もまたあの、踏ん反りかえったような姿を頂いてから、そういうことでは人徳はつかないぞと、人の信用はつかないぞと、これはまあ私に頂いておると思うて私に繋がって折る皆さんもです、どうでも、おかげを受けてもらわなければなりません。
 御神徳を頂いて本当に色んな意味でです、おかげを受けて頂いていかなければなりませんけれども、おかげを受けてです、またおかげを落とすという事になってはなら、最後の所に頂きます事がですね、「慢心が出ると人徳を落とす」と言う事を頂きます。ね。私共が神徳、完璧な神徳といったような者なら間違いないですけれども、けれどもこれはやはり教祖様でもですね、あれだけの御神徳を頂いてもいつお暇がでるやら神様からお暇が出るか分からんといったように言うておられますからね、いつこれが神様から頂いたものだから取り上げられるか分からん。私共でもそうです。大坪総一郎へこうして、御神徳らしいものを下さって、決して下さっておるのではない、お前のは貸し物じゃと神様が仰るですから。いつだから取り上げらるか分からん。取り上げられたら誰も鼻もひっかけんことなる私という自覚に立ってです、ね、例えばそういう事になっても人から立てられるような私は人徳を得ておるような修行をこれは本気でしとかなければいけないなと私は今日は思いました。慢心が出ると(?)。ね。慢心がおかげを落とすぞと、いうご理解がございますね。先に。慢心が出ると身に徳を落とす。ね。これがですね、難儀の時には慢心は出てこんです。大体。ね。いうなら、(  ?  )自分が貧乏なら貧乏しておる時には。ところが少し出来てくるとです、フンというて、鼻で人をあしらうようになってくるです。( ? )人を軽くみるなという事です。ね。そうしたら、人徳落します。ね。その人徳が、支えられなかったらその人間の幸せはないという事をです、一つ思うて、ね、人徳を得るための修行を本気でさせてもらわないかん。勿論、神徳は受けていかなければならないものですから、おかげの受け物神徳の受け物、それは、常日頃私が申しておりますとうりですけれども、今日はとりわけこの、人徳を得よと仰るところを私は皆に聞いて頂きました。これは私自分自身のことをいうておるつもりです。ね。私には人徳がない。人が親先生、親先生と言うて、神様のように扱ってくださるのは、助かっておるから言うておるだけの事。もし、助からなくなったらもうそれこそ大坪さんとも言うてくれなくなる。
 そこで私はどこを(   ?  )どこをおしゃ、踏ん反り帰っておられるかと、それこそ、元禄の白髪染めじゃないけれども、髪はもう白う(?)ていきよる。信心がかれていきよる。ね。はあ、私はまあ、遅まきながら例えばそういう事に気が付かせて頂いたという事は有り難いと思う。ね。世間では、昭和元禄と言われるような時勢が、だから信心は( ? )それに調子に乗っていくようなことではあってはならない。人間はね、上調子なことやら、楽なことにはすぐ、傾き安いものであります。それが、自分を知るという事。ね。ここは辛抱しなければならんところ。ね。本気でですね、人の為に世の為に条件もない真心を持って、考えられる、本気で考えられる、信心をさせてもらう。
 自分の行動という生き方の中に、口ばっかり的なものはありはしないだろうか。猛反省させてもろうて、これでは人徳を得ることは出来ない。その、人徳を得るためにはどういう風になってよいかという事をですね、一つ本気で思うてみて、よしまたなら、おかげを受けましてからでもです、慢心が出ると身に徳を落すと、この人徳というのはここで私のことでいうなら、人が助かっておる間はという意味です。人が助かっておる間は親先生親先生といかにもいうておるから、それは人徳のようにこちらが間違えておるけれども、それは人徳でない証拠におかげが受けられなくなったら、鼻にもひっかけんじゃないかと。ね。かえって悪口を言うようになるじゃないか。ね。そこを思うときにです、ただ、おかげを頂いておるときに言われておるこの親先生というのは本当のものじゃないという事。その親先生をいつでも神様は取り上げられる事が出来るものであるという事。借り物だという事。ね。ですからどのようにおかげを受けておっても自分の力で(?)という気持ち。神様のおかげなればこそという思いでです、ここんところの信心をね、人徳を得るための信心をです、例えばどのようにおかげを受けても踏ん反りかえったようなことには決してなりはいたしませんという信心が今こそね出来ておらなければならんときではなかろうか。
世の悪に染むことなく、そこに信心の教えがはっきり出てくる。私共の現在の信心の中に何とはなしに合楽ムードというのは、(?)それは元禄ムードにというような同じような意味で私は合楽ムードという事をもうしますが、その合楽ムードだけに酔うておってはならない。ね。本気でですそれを自分の身につけれる信心が果たして出来ておるかどうか。例えば今日の一枚でもですよ、この食してよいだけの自分であるかどうかという事をです、本気で考えてみてです、私は、頂く資格のない自分であることを分かったらですもう本気でお詫びの信心。昨夜の(?)、本気でお詫びに徹しさせて頂くような信心をこういう世の中、こういう状態。こういう太平ムードの時こそです、そういう信心が出来ておらなければならないときではなかろうか。ね。えらい先生が言われておりました。ね。平穏無事の時が一番危険だと。ね。ここを一つおかげを頂きましてですね、おかげを頂いてもそれを落すことのない信心をです、今しっかり身につけていかなければならないときですよね。
                                     どうぞ